Nさんのこと

Nさんのこと

大学に入学して最初のオリエンテーションが終わった後、教室を出て行く教員と入れ替わりに上級生が入ってきて「夕方から歓迎の花見をやるので是非参加してください」と案内をした。大学の、同じ専攻という括りで縦割りの交流があるとは思っていなかったのだが、考えてみれば学年で40人もいないような狭いコミュニティなのだった。一応周りの人に行くかどうか訊ねると皆「とりあえず」という感じで参加するつもりになっている。ただ一人、まだ部屋が決まらずに長野から通学している人だけは「新幹線の時間があるから」と言って帰って行った。

夕方ぞろぞろと電車に乗り込んで花見会場へ向かう。桜が綺麗なことで有名な公園だと行きしなに聞かされる。着いてみれば確かに満開の桜が無数にあって眺めがいい。朝から場所取りをしていたという上級生が、広いシートの上でゴロゴロと退屈そうに過ごしていた。新入生は促されるまま、大量に用意されたつまみと飲み物の間へバラバラと腰を下ろした。

歓迎会を仕切っていたのは主に、専攻に関わる研究会のメンバーらしかった。色んな人が入れ替わり立ち替わり新入生たちのもとへやってきて、大学はどうだの、先生はどうだのと話をしてくれる。そのうち、私が座っていたグループのところへNさんという四年生が来た。穏やかでいい人そうだな、というのがその時の印象だった。

最初の質問らしく、Nさんは私に「どうして哲学をやろうとしたのか」と訊いた。法学部を蹴ってこちらへ来た口の私は「自分の考える幸福というものが他の人にそうとは限らないと思ったので、他の人が幸福をどう考えているのか知りたいと思った」と、概ねそんなことを答えた。当時私はデカルトにハマっていたので、Nさんと延々デカルトの話をした。Nさん自身はカントを専門にしていた。「カントもやるといいよ」とNさんは言った。ドイツとフランスでは性格が違うから色々学んで考えを確立して行った方がいい、というようなアドバイスをくれたように覚えている。

私はこの日ずっとNさんと話していたので、同席していた上級生からは暫く「花見でずっとN君と喋っていた子」と覚えられていた。研究会へは何度か顔を出したが、結局正式なメンバーにはならずに終わった。課外活動も研究に取り組むより、小説や詩を書き寄って売るという頓狂な取り組みに傾倒するようになったからである。

Nさんとは講義が被ることもほぼなかったが、時折学内で姿を見かけた。院に進学した頃からは、その頻度が少なくなっていたように思う。しかし同じように見かけないと思っていたらインドに行っていたような人もいたし、Nさんもそんな感じだろうと思っていた。そのまま博士課程まで進んで研究者になるまでここにいそうだなと勝手にそう思い込んでいた。

ある年の冬、Nさんと同じ研究会に所属する同級生が慌てたようにやって来て言った。

「Nさんが亡くなったんだってよ」

その言葉を私は全く理解できなかった。

その人はこうも続けた。

「それで、今日Nさんの親御さんが友達や研究会の人に話を聞きたいそうだから、これから大学に行ってくる」

その人がのちに話してくれた内容によれば、大学ではNさんの親御さんと教員と研究会のメンバーが主に集まって色々と話をしたらしかった。Nさんの親御さんはNさんが亡くなった理由について、思い当たることがないか聞きたいというような旨でお話をされたという。しかし皆「信じられない」と驚くばかりで、思い当たるようなことは結局見出せなかったということだった。

それからも折に触れ、当時を知る人とNさんを思い出してたわいもない話をした。何しろ飄々としたかっこいい人だったね、と。今でさえそれくらいしか、Nさんのことを知らない。今回書き記すにあたってまた誰かに何か聞いてみようかとも思ったが、結局一人で思い出すままに書き終えようとしている。こういう機会は実は以前にもあった。しかしその時私はなぜだか急に、Nさんの名前を忘れてしまったのだ。文字数と語感は覚えているけれど、はっきりした名前が思い出せない。しかし「あの人、名前なんだっけ」と聞いて回るのも、そんな切り出し方はあまりに酷いと思ってできなかった。Nさんの名前を思い出そうとして思い出せないまま、さらに何年も月日が過ぎた。

それが、なぜだかは全くわからない。先日朝目が覚めた瞬間、Nさんの名前をはっきりと思い出した。あの花見の日に初めて聞いた時ほどに真新しい感覚で、記憶の底から甦ってきたのだ。人間の脳は思い出そうという行為を一旦やめてもバックグラウンドで検索し続けていると何かで見た気がする。私の脳は数年もかかってやっとNさんの名前を思い出したというわけで、これにより漸くこの思い出を書き記すことができた次第である。

東京は数ヶ月後にオリンピック開催を控えていること、世の中はコロナで全てが様変わりしてしまったことをNさんが知ることはない。Nさんが生きていたら何を思っただろうか、と考える。しかしそれも結局、自分の中で反響するだけでどこからも答えは返ってこない。たいした関わりもない人間が僅かな思い出を掘り起こして書き連ねる意味があるとも思わない。ただ私の生きている限り、Nさんを忘れない。

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2 years ago

私が日記を書こうとすると「最近○○していない」とか「できていない」とか未処理案件ばかり羅列して「だからなんなのか」という話になりがちである。今「映画館に全然行けていない」と書こうとして得た気付きなのだが、これはひとえにGOG Vol.3を見に行きたいのに見に行けていないからだ。でも少し前に黒鉄の魚影は見に行った。蘭おねえさん(丁寧語)がバルコニーから飛び出すシーンが派手すぎて「俺はマーベルを観に来たんだったか?」という気持ちになったし、最高に良かった。何にせよ、哀ちゃんもジンの兄貴も一生推せますね。

最近アンディ・ウィアーを読んでいるから自分の文章もあのスピード感に引きずられて前のめりになっている気がする。が、悪いことではないと思うようにする。日記をグダグダ書いても仕方ないので。


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4 years ago

南と南、それから東

春の風の瑞々しさは、あたらしい果物を噛んだ時のそれに似ている。ほんの少し雪が降ったかと思えば、瞬く間に気温は上がり、そうかと思えば雹が降ってみたりもする。春はもうこの土地に戻ってきたのだけれど、まだ荷ほどきをせず、生きている者たちの様子を観察しているのかもしれない。強い風を吹かせ、時折はまた寒気のために道を開ける。二月の終わりにさえ、雪が降ったことはあったのだから。

ところで、今日が節分というのは人に聞くまで知らなかった。何がなんでも二月三日というわけではなく、立春の前日のみをそう呼ぶとは!

帰りがけにスーパーを覗くと、みんな恵方巻をカゴに入れていた。関東で恵方巻を食べるようになったのはここ十数年程度ではないだろうか。しかしそう考えてみると、イベントとしてすっかり定着したのだなあとも思う。いずれにしても献立に悩む必要がない夜というのは大変ありがたいものだ。それだけでも歳神の方を向いて、御礼を言いたくなるものである。


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2 years ago
um1aut - 月刊地獄めぐり

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4 years ago
ムーンパレスにはナイトキャップ的鎮静作用を感じる。のめり込んで一気に読み進めるというよりは、少量ずつ内服する感じ。「幽霊たち」を読んだだけでオースターが好きですなんて面をして生きてきたけどこれからはちゃんと読む。

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3 years ago

紙ものをいろいろ作る。一年ぐらい原稿を作っていなかったから、塗り足しってなんだっけなと一瞬考えたりした。作っているうちにだんだんいろんなことを思い出してくる。

寒いから茶、茶、茶、だ。新しいポットでいれるいつもの茶は美味しい。


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3 months ago
見る・話すより、書くこと自体を楽しむサービス「Trickle」 - maru source
maru source
こんにちは丸山@h13i32maruです。僕はTrickleというサービスを2017年から運営しています。Trickleは「Twitter、少し疲れてきたなぁ。でもやめたいわけではないし。。。もっと気兼ねなく使えるサービスがほしい」という思いから作りました。 このサービスのコンセ

二年前くらいにインストールしてから使ったり休んだりを繰り返しているのだが、ここ最近は積極的に利用している。

SNSを見ているとどうしても「みんなに比べて自分は何もしていない」という気持ちになりがちなのだが、Trickleで自分のログを見直すと自分なりに色々取り組んでいることをちゃんと認識できるから助かっている。草ログが実装されているのも、自分が何についてどれくらいの頻度で(あるいは期間を)取り組んできたのかがわかりやすくて良い。他人が取り組んだことについて「自分はやっていない……」と落ち込むのではなく、自分がやってきたことをちゃんと自分で評価できるようになれればいいと思う。


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2 years ago
ローストビーフというかコールドビーフが食べたくなり料理。副菜のグリーンピースはBBCのサイトに載っていたものを作って添えてみた。

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4 years ago
um1aut - 月刊地獄めぐり

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4 years ago
The Verge, Shimo-kitazawa 下北沢

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2 years ago

自分が必要だと思うものが全部入る鞄は大きすぎるし重すぎる、ということに最近気がついた。横断歩道で信号待ちをしているさなかに。それからの午後は歩くのが億劫になって何もかも嫌になってきたのであれこれ持ち歩くのを諦めることにした。財布と鍵とモバイルバッテリーとハンカチとマスクと目薬。書き出してみるとこれでも多くてうんざりするな。

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ゾンビよ、朝には死んだように眠れ

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