ご自由に
春の風の瑞々しさは、あたらしい果物を噛んだ時のそれに似ている。ほんの少し雪が降ったかと思えば、瞬く間に気温は上がり、そうかと思えば雹が降ってみたりもする。春はもうこの土地に戻ってきたのだけれど、まだ荷ほどきをせず、生きている者たちの様子を観察しているのかもしれない。強い風を吹かせ、時折はまた寒気のために道を開ける。二月の終わりにさえ、雪が降ったことはあったのだから。
ところで、今日が節分というのは人に聞くまで知らなかった。何がなんでも二月三日というわけではなく、立春の前日のみをそう呼ぶとは!
帰りがけにスーパーを覗くと、みんな恵方巻をカゴに入れていた。関東で恵方巻を食べるようになったのはここ十数年程度ではないだろうか。しかしそう考えてみると、イベントとしてすっかり定着したのだなあとも思う。いずれにしても献立に悩む必要がない夜というのは大変ありがたいものだ。それだけでも歳神の方を向いて、御礼を言いたくなるものである。
”青痣が残る目の堰が切れた。家の裏、うち捨てられたオイル・タンク、一面の雑草、木の幹。人々が暮らし、去った場所。イーストは涙が涸れるまですすり泣いた。しかし、だからといって、実際には何も変わらないのだ。どんな言葉を聞いても、どんな光景を見ても、どんな思いを抱いても。筋肉のいたずらだ。涙腺が緩んだだけだ。”
Bill Beverly「東の果て、夜へ」早川書房
何もやる気が出ない。文章を書いてもうまくいかない。本を買うけれど読む気にならない。音楽を聴いて楽しくも悲しくもなりたくない。ただ映画だけは見ているし、映画館はこれからも行く。イングランドは再ロックダウンで各映画も撮影中止を余儀なくされているそうだが、ファンタビ3をいつまでも待つ。
最近地元のライブカメラをつけっぱなしにしている。もう何年もまともに帰れていない。ライブカメラを通して、この場所を鳥が飛んだとか、信号機が青になって止まっていた車が走り去ったとか、そういうことを逐一リアルタイムで見ている事に意味を見出しているらしい。あまり良くないことだと思う。今ここにある現実を生きていないようなものだからだ。生産性がない。
日々を生きているだけで自分の身体以上のエネルギーを消費している。コロナもあるけど、なんというか。この負債がプラスに転換しない限りは、行動に結果がついてくることはないのかもしれない。無力感に絶望したくなるけれど、今できることをやめたくはないと思う。