最後に書いた日記の内容を覚えていない。特段書くこともなく、というよりも何かを誰かに知らせることの意味を全く見出せず、近頃インターネットには全然いない。前回、読書に関することを書いたかもしれない。そうか。読書は相変わらず捗っている。電車の中、寝る前、ほか。2014年に買った本が全然面白くなかったのは、続きものの2巻だったからだった。1巻を買って読んだ。痺れるほど面白かった。そういう季節を過ごしている。12月。
夏にリペアに出したカメラを久しぶりに持ち出したら、1本目で巻き上げダイヤルが回らなくなった。2回リペアに出したら同じカメラをもう一台買えると思うと腰が重い。とはいえ、買い替えるのも躊躇している。なんだかんだ十年は持ち続けてきたものだ。愛着もある。年数が経てばガタが来るのは仕方のないことで、その度に治療が必要なのは有機物と同じだ。この頃そういう諦めを理解しつつある。とはいえ私のカメラは私より既にずいぶん長生きだし、寿命というものがあるにせよまだ当分先のことだと楽観視している。
寒くなったと人は言うが、東京は全然寒くない。そういう街をくそったれと思いながら生きている。小説を書こう。短歌を詠もう。疲れ果てているけれど、やれることをやっていく。
TENETの円盤が届いていた。11月に予約した時は年明けなんてまだ先のことだと思っていたがあっという間だ。櫻井孝宏の吹替目当てに買ったと言っても過言ではない。まさかここで会えるとは思っていなかった。櫻井孝宏仕事し過ぎである。供給が多い。感謝。
TENETといえばマイケルケインの食事シーンが癒しと一部界隈で話題なわけだが、マイケルケイン主演のキングオブシーブスが来週公開だから楽しみだ。コメディな予告に反して案外笑えないという評を見て逆に期待している。
「人々はばかげたユーザー名を作り、匿名でTumblrにジョークのスレッドを延々と作っていた。」楽しそうだなあ
8巻。セオデンが奮い立ちゴンドールへ向けて勇猛に馬を進める様子を兵たちが神話の人物かと見紛う場面がとても良い。エウォインの女であるがゆえの苦悩、苛立ちが丁寧に描かれているのも良かった。それがあればこそその後の活躍は一層輝いて見える。
指輪物語の文体や言い回しは、この物語の神話的な性格に相応しいものだと思うのだが、この巻は特に痺れる表現がたくさんあった。デネソールが自分と瀕死のファラミアに火をかけての無理心中を思い立った際、高熱のファラミアの手をとって「この子はもう燃えておる」は特に好きなシーン。
それからエーコの「プラハの墓地」は、まだ15%程度。面白い。この雰囲気は同じエーコの「薔薇の名前」を帯文で引き合いに出された「グノーシスの薔薇」(デヴィッド・マドセン)を思い出す。などと言うとエーコファンには怒られるのかもしれないが、私はこの本が大好きだ。こちらも再読する機会があれば、また。
自分のiPhoneを見て、イヤホンジャックがないことに今更しみじみと気がつく。かつてガラケーにアンテナがついていて、これをカラフルに光らせてみたりするという文化があったように、iPhoneを充電しながらジャックにイヤホンをさして音楽を聴くという行為は、これはこれで一つの文化だったのだと思う。イヤホンジャック廃止はそれ以前のやり方から言えば確かに不便な側面はあり、そのためにイヤホン用と充電用で二つの差し込み口がついたドックが販売されているのは当然と言えば当然だろう。しかしなんというか、この種の旧態維持が実現することによって得られる充足は、たぶんノスタルジーに似ていなくもない。
SNSを見ていると常に誰かが怒っている。政治に、あるいは見も知らぬ誰かの発言に。自分の意見を明瞭にしておくことは大切だが、怒ること自体を目的に持ってしまうのはあまりに虚しい。他者への批判は自己を正当化するためにあるのではない。感情の赴くままに否定したり、肯定したりもしたくないし、誰かのそうした行為を受け取りたくもない。