先日外出中にひどく具合が悪くなったことがあったのだが、それ以来一気に気力を失っている。自分がなんのためにここにいるのか、働きに行っているのか、まったくわからなくなってしまった。海辺にずっと座っていたり、田植えの終わったばかりの田んぼを眺めて過ごしたい。地元に帰りたいとずっと思っているけれど、親の生きているうちは無理だなと折につけ。
印刷物を作るとき、データ入稿後はいつも不備連絡が来るのではと落ち着かない。無事可の連絡をもらったので安堵して発送を待つ。
先月三島由紀夫vs東大全共闘を見た関係で佐々淳行「東大落城」を読んだ。警察側の立場での奮闘がよく描かれていて面白かった。これまでなんとなくのイメージで学生、パワーあったんだなとぼんやりした感想を持っていたのだが、警察は警察で凄まじいというか、昭和という時代はとんでもなかったんだなと、ぼんやりの範囲が広がるに至る。
学生たちが道路のコンクリートを剥がして武器にしてしまうので、機動隊で先回りして剥がしたところ道路局が何事かと飛んできたというエピソード、良い。
大人とはなんだろうか、とふと思う。子どもの頃考えていた「大人」は、空に浮かぶ星の名や、道端の草木の名をなんでも知っている人のことだった。生業にこそしていないけれども、私は概ねそういう人生の途中にある。現実的な話、それだけでは到底大人とは呼ばないし、自分自身にしろ、好きだから続けているというだけの話だ。その上、それらを知らなくとも「大人らしさ」には全く関係がない。大人の背中というものがあるとしたら、ただその人の振る舞いであり、生き方に他ならない。私自身が「大人のあり方」について考え続けるのならば、これからどんな選択をしようと、そのことは忘れずにいたいと思う。(副題:いいやつになれ、と霊幻は言った)
「人々はばかげたユーザー名を作り、匿名でTumblrにジョークのスレッドを延々と作っていた。」楽しそうだなあ
何もやる気が出ない。文章を書いてもうまくいかない。本を買うけれど読む気にならない。音楽を聴いて楽しくも悲しくもなりたくない。ただ映画だけは見ているし、映画館はこれからも行く。イングランドは再ロックダウンで各映画も撮影中止を余儀なくされているそうだが、ファンタビ3をいつまでも待つ。
最近地元のライブカメラをつけっぱなしにしている。もう何年もまともに帰れていない。ライブカメラを通して、この場所を鳥が飛んだとか、信号機が青になって止まっていた車が走り去ったとか、そういうことを逐一リアルタイムで見ている事に意味を見出しているらしい。あまり良くないことだと思う。今ここにある現実を生きていないようなものだからだ。生産性がない。
日々を生きているだけで自分の身体以上のエネルギーを消費している。コロナもあるけど、なんというか。この負債がプラスに転換しない限りは、行動に結果がついてくることはないのかもしれない。無力感に絶望したくなるけれど、今できることをやめたくはないと思う。
1巻読み終わった。未だホビット庄を出ていないことに驚く。そしてやはりホビットの冒険を読んだ後なので、諸々理解が及んで楽しい。映画のフロドは若者だったので、原作では五十歳なこと、五十歳なのでそれなりに落ち着きのある雰囲気なのが新鮮で面白い。
ホビットの冒険でもそうだったが、食事の様子が美味しそうで良い。きのことベーコンの料理なんて容易に味の想像がつく(確かに美味しい)けれど、物語に出てくると途端に食べたい気持ちが湧いてくるから不思議だ。それから森で出会ったエルフたちが振る舞ってくれた食べ物。「泉のように冷たくて黄金色をした飲み物」は一体どんな味なのだろう。それが宴席で供される場面もいいのだが、水筒に詰めてもらったのを飲むのがいかにも美味しそうだった。いや、どんな感想だ。
あなたの周りは、いたるところ広い世界。垣根をきずいてとじこもることはできても、垣根の中にいつまでも外の世界を入れないでおけはしないでしょう。(新版指輪物語1 191ページより)
チョコレートである。フェアトレードマークというものについては、それが本来の目的を厳正に果たしているかという点において、あまり信用していない。かといって自分が直接的に何かするのも難しいので、そこは信頼できる企業を見つけ、消費者として選択していきたい。Tony’s Chocolonleyが気になっていて、日本でも入手しやすくなってくれたらいいなあと思っているところ。