こちらのnoteを読んで始めてみた。一日一枚撮って貼るだけなので簡単である。何はなくともとにかく一枚撮らなくてはならない、というのも結構楽しい。絵的には地味でもチェキならなんとなくいい感じになる(気がする)のもありがたい。
挟んである写真は相田諒二さんのポストカード。季節が変わればまた違う写真にする。
http://um1aut.tumblr.com/ask
Google フォームはメニューバーに移動しました。教えて頂いたものにつきましては取り掛かったり取り掛かれていなかったりですが引き続きよろしくどうぞ。こちらも何かあったりなかったりどうぞ。
昨日は切り干し大根の煮物、キャベツの和え物、ピーマンのきんぴらとつくねを作り、鶏肉を蒸した。まだ使わない豚肉には醤油をしておく。今日は余っていた鶏肉と豚肉を合わせて挽き、タコミートを作った。昨日の買い物はこれで大体手を入れたことになる。魚の干物は食べたい日に焼けば良いし、まだある野菜はぼちぼち副菜に使っていこう。
このところ料理をそれなりにしている。しかし料理が捗る時はだいたい、書いたり、書くことについて考えたりすることから遠ざかっている時なのだ、ときゅうりを切りながらふと思う。私にとって料理が楽しいというのは一つの状態であり、停滞でもある。そしてこの停滞に対して進展があるとすれば、書くことに没頭してそれ以外の全てを放り出している状態に他ならない。自分でエンジンをかけていかなければとは思うのだけれど。
地下鉄のエスカレーターに貼ってある注意喚起のピクトグラムをなんとなく眺めていた。大人と子どもが並んでエスカレーターに乗っている図。各配色は、注視すべき子どもが赤色、保護者とエスカレーターが青色、エスカレーターの安全ラインが黄色(これは実物通りか)となっている。良いデザインは直感的で実用的だ。
もし非常口のピクトグラムが緑色ではなく赤色だったら不安感を与えるのだろうなとホームに立って考える。こういう感覚は、緑はgo、赤はstop、黄色はcautionを示す信号機を連想するからか(それが全てではないにしろ)。そう言えばなぜ青信号はそのカラーであるところの緑信号と呼ばずに青信号と呼ぶのだろうと疑問を持つ。検索すると解説をしているサイトが色々出てきて面白い。電車を待つあいだ。
暗闇に明滅する光を永遠に眺めていたい。永続性なんてこの世のどこにもなくても、この夜はまだ終わらないんだって今だけはそう思える。
1巻読み終わった。未だホビット庄を出ていないことに驚く。そしてやはりホビットの冒険を読んだ後なので、諸々理解が及んで楽しい。映画のフロドは若者だったので、原作では五十歳なこと、五十歳なのでそれなりに落ち着きのある雰囲気なのが新鮮で面白い。
ホビットの冒険でもそうだったが、食事の様子が美味しそうで良い。きのことベーコンの料理なんて容易に味の想像がつく(確かに美味しい)けれど、物語に出てくると途端に食べたい気持ちが湧いてくるから不思議だ。それから森で出会ったエルフたちが振る舞ってくれた食べ物。「泉のように冷たくて黄金色をした飲み物」は一体どんな味なのだろう。それが宴席で供される場面もいいのだが、水筒に詰めてもらったのを飲むのがいかにも美味しそうだった。いや、どんな感想だ。
あなたの周りは、いたるところ広い世界。垣根をきずいてとじこもることはできても、垣根の中にいつまでも外の世界を入れないでおけはしないでしょう。(新版指輪物語1 191ページより)
モデルナ2回目を待っている。が、どうなることやら。世の中も世の中だが暑いというだけで気力が削がれるので早く涼しくなって欲しい。
ぼちぼち読書はしている。新潮文庫から出ている「銀河鉄道の夜」、特別装丁版を買ったは良いものの長らく放置していたのを急に見つけて昨日読み終えた。シグナルとシグナレスが特に良かった。いずれ花巻を旅行してみたい。
これまで自分の意見をはっきり言ったり立場を明確にすることは面倒だし、経験的に無益だと思うことが多かったのだけど、昨今の諸々でやっぱり大事なことなんだなあと思うなどしている。私の場合は積極的な意味合いより、自分を守るためというのが大きいけれど。考えの異なる者同士が互いに過剰な干渉をせず共存できればベストだと思うけれど、対立して壊れる関係ならそれもそれで構わないな、という、この一年少しの自分の変化。