モデルナ2回目を待っている。が、どうなることやら。世の中も世の中だが暑いというだけで気力が削がれるので早く涼しくなって欲しい。
ぼちぼち読書はしている。新潮文庫から出ている「銀河鉄道の夜」、特別装丁版を買ったは良いものの長らく放置していたのを急に見つけて昨日読み終えた。シグナルとシグナレスが特に良かった。いずれ花巻を旅行してみたい。
これまで自分の意見をはっきり言ったり立場を明確にすることは面倒だし、経験的に無益だと思うことが多かったのだけど、昨今の諸々でやっぱり大事なことなんだなあと思うなどしている。私の場合は積極的な意味合いより、自分を守るためというのが大きいけれど。考えの異なる者同士が互いに過剰な干渉をせず共存できればベストだと思うけれど、対立して壊れる関係ならそれもそれで構わないな、という、この一年少しの自分の変化。
朝、角を曲がったところで路上に鳩が居て、互いに驚く。信号を待っていると向かいのマンションの生垣に猛スピードでメジロが突っ込んでいき、また飛び出していった。生垣からは色んな鳥の声がしたから、同じメジロかどうかはわからない。
大人とはなんだろうか、とふと思う。子どもの頃考えていた「大人」は、空に浮かぶ星の名や、道端の草木の名をなんでも知っている人のことだった。生業にこそしていないけれども、私は概ねそういう人生の途中にある。現実的な話、それだけでは到底大人とは呼ばないし、自分自身にしろ、好きだから続けているというだけの話だ。その上、それらを知らなくとも「大人らしさ」には全く関係がない。大人の背中というものがあるとしたら、ただその人の振る舞いであり、生き方に他ならない。私自身が「大人のあり方」について考え続けるのならば、これからどんな選択をしようと、そのことは忘れずにいたいと思う。(副題:いいやつになれ、と霊幻は言った)
春の風の瑞々しさは、あたらしい果物を噛んだ時のそれに似ている。ほんの少し雪が降ったかと思えば、瞬く間に気温は上がり、そうかと思えば雹が降ってみたりもする。春はもうこの土地に戻ってきたのだけれど、まだ荷ほどきをせず、生きている者たちの様子を観察しているのかもしれない。強い風を吹かせ、時折はまた寒気のために道を開ける。二月の終わりにさえ、雪が降ったことはあったのだから。
ところで、今日が節分というのは人に聞くまで知らなかった。何がなんでも二月三日というわけではなく、立春の前日のみをそう呼ぶとは!
帰りがけにスーパーを覗くと、みんな恵方巻をカゴに入れていた。関東で恵方巻を食べるようになったのはここ十数年程度ではないだろうか。しかしそう考えてみると、イベントとしてすっかり定着したのだなあとも思う。いずれにしても献立に悩む必要がない夜というのは大変ありがたいものだ。それだけでも歳神の方を向いて、御礼を言いたくなるものである。
精神の調子が悪い時は何一つ面白くないし、いい時は最高に面白く読めるのがブコウスキーだと思う。何というかブコウスキー全般、ゼリーのカップに手を突っ込んでひたすら潰しまくった挙句、気付いたら全部溶けて液体になっていた時の虚無に大笑いしたい人生の人向き。
東京都現代美術館で開催中の「マーク・マンダース マーク・マンダースの不在」展に行ってきた。朝一番で訪問したが、先客は皆同時開催のライゾマの方へ吸い込まれて行ったのでほぼ貸し切り状態、とてもゆったりと鑑賞することができた。インスタレーション独特の作者の頭の中を歩き回るような体験は奇妙で楽しい。「不在」や「未完成」といったものはある意味で理想的な形なのかもしれないな、と鑑賞しながら考えていた。内臓剥き出しのようにも見える「未完成」は生成でもあるが腐敗にも感じる。あるいは、恒久的に留まり続ける「過去」を鑑賞者の意識を通して遡るように感じる作品もあった。マーク・マンダースの文字ではなく立体を通じて語るという行いを、自分なりに少しは解釈できた、のだろうか。とにかく面白くて何度も行き来した。あと粘土か石膏に見えてブロンズ製の制作物が多くて、この辺の知識がないのだがあの質感、どうやって作るんだろう。
順路最後にある床下に三羽の鳥の死体(のオブジェ)が埋められている部屋は普通に最高だったな。「大地は死に覆われている(けれど普通に地面を歩く時それに気づくことはない)」のだ。