朝、角を曲がったところで路上に鳩が居て、互いに驚く。信号を待っていると向かいのマンションの生垣に猛スピードでメジロが突っ込んでいき、また飛び出していった。生垣からは色んな鳥の声がしたから、同じメジロかどうかはわからない。
春の風の瑞々しさは、あたらしい果物を噛んだ時のそれに似ている。ほんの少し雪が降ったかと思えば、瞬く間に気温は上がり、そうかと思えば雹が降ってみたりもする。春はもうこの土地に戻ってきたのだけれど、まだ荷ほどきをせず、生きている者たちの様子を観察しているのかもしれない。強い風を吹かせ、時折はまた寒気のために道を開ける。二月の終わりにさえ、雪が降ったことはあったのだから。
ところで、今日が節分というのは人に聞くまで知らなかった。何がなんでも二月三日というわけではなく、立春の前日のみをそう呼ぶとは!
帰りがけにスーパーを覗くと、みんな恵方巻をカゴに入れていた。関東で恵方巻を食べるようになったのはここ十数年程度ではないだろうか。しかしそう考えてみると、イベントとしてすっかり定着したのだなあとも思う。いずれにしても献立に悩む必要がない夜というのは大変ありがたいものだ。それだけでも歳神の方を向いて、御礼を言いたくなるものである。
SNSを見ていると常に誰かが怒っている。政治に、あるいは見も知らぬ誰かの発言に。自分の意見を明瞭にしておくことは大切だが、怒ること自体を目的に持ってしまうのはあまりに虚しい。他者への批判は自己を正当化するためにあるのではない。感情の赴くままに否定したり、肯定したりもしたくないし、誰かのそうした行為を受け取りたくもない。
チョコレートである。フェアトレードマークというものについては、それが本来の目的を厳正に果たしているかという点において、あまり信用していない。かといって自分が直接的に何かするのも難しいので、そこは信頼できる企業を見つけ、消費者として選択していきたい。Tony’s Chocolonleyが気になっていて、日本でも入手しやすくなってくれたらいいなあと思っているところ。
月曜から結構疲れている。昨日の夕飯は茄子の揚げ浸しとブロッコリー胡麻和え、青椒肉絲と甘酒の味噌汁を作った。さらに玄米を混ぜたご飯と、薄く作ったレモンサワー付き。これは外で食べたら2000円くらいするだろうなと自画自賛した。
副菜をいくつか作っておくと食事の支度が簡単でいい。料理は基本的に面倒でやりたくはない。何もなければ胡瓜でも齧っておけばいいくらいなのだが、時々作ることが妙に楽しい日がある。今日、茄子がまだ余っていたので味噌炒めにして、鶏を蒸して裂いておいた。二品。これ以上はやめておく。こういうことは疲れ果てるまでやっても仕方がないのだ。
怒りたい時に怒ったり泣きたい時に泣いたりできたのって何歳ぐらいまでだったんだろうな。やめるとか諦めるとか、そういうスタイルがいつの間にか自分の生き方を上書きしてしまった。そうではなかった時期ってどこだったんだろう。20歳頃には完全に目が死んでいたから、せいぜい17、8かそこらまでかもしれない。いやそんなメンタルで高校進学した気がしない。中学と同時に卒業したかもしれない。15歳とかもう記憶がないよ。でもきっと一瞬の喜怒哀楽に生きるか死ぬかという問題が詰まっていて、目の前の何もかもが美しいか汚いかどちらかだった。思春期って楽しいや。
あれから時が経って、負け惜しみみたいなトライアンドエラーを無数に繰り返して、結果修復不可能なエラーの負債を背負いながら乗りたくもない電車を待つ今を今日も生きてるけど。
私が日記を書こうとすると「最近○○していない」とか「できていない」とか未処理案件ばかり羅列して「だからなんなのか」という話になりがちである。今「映画館に全然行けていない」と書こうとして得た気付きなのだが、これはひとえにGOG Vol.3を見に行きたいのに見に行けていないからだ。でも少し前に黒鉄の魚影は見に行った。蘭おねえさん(丁寧語)がバルコニーから飛び出すシーンが派手すぎて「俺はマーベルを観に来たんだったか?」という気持ちになったし、最高に良かった。何にせよ、哀ちゃんもジンの兄貴も一生推せますね。
最近アンディ・ウィアーを読んでいるから自分の文章もあのスピード感に引きずられて前のめりになっている気がする。が、悪いことではないと思うようにする。日記をグダグダ書いても仕方ないので。