精神の調子が悪い時は何一つ面白くないし、いい時は最高に面白く読めるのがブコウスキーだと思う。何というかブコウスキー全般、ゼリーのカップに手を突っ込んでひたすら潰しまくった挙句、気付いたら全部溶けて液体になっていた時の虚無に大笑いしたい人生の人向き。
大人とはなんだろうか、とふと思う。子どもの頃考えていた「大人」は、空に浮かぶ星の名や、道端の草木の名をなんでも知っている人のことだった。生業にこそしていないけれども、私は概ねそういう人生の途中にある。現実的な話、それだけでは到底大人とは呼ばないし、自分自身にしろ、好きだから続けているというだけの話だ。その上、それらを知らなくとも「大人らしさ」には全く関係がない。大人の背中というものがあるとしたら、ただその人の振る舞いであり、生き方に他ならない。私自身が「大人のあり方」について考え続けるのならば、これからどんな選択をしようと、そのことは忘れずにいたいと思う。(副題:いいやつになれ、と霊幻は言った)
日曜、「平成を見納めに行こう」ということで友人と連れ立ってパレットタウンに行った。お台場という場所に来ることが早々ない。下手したら小学生以来かもしれない。昔、東京観光に行くということになって張り切った母が日程表を作り出したのだが、パソコンに「お台場海浜公園」と打ち込んだら「お題馬鹿遺品公園」と変換されて二人で死ぬほど笑い転げた記憶がある。平成の話だ。当時は再訪が年号を跨ぎ、しかも閉園直前になるとは考えてもいなかったと思う。
夕方のパレットタウンは結構賑わっていた。せっかくだから観覧車に乗っておこうという話になる。もう夕方だからか待ち時間は5分ほどだった。ゴンドラの高度が上がっていくに連れて、窓の外の景色が広く明らかになる。フジテレビ社屋、レインボーブリッジ、東京タワーだのスカイツリーだの、絵に描いたような東京。反対側を見れば、近海郵船の大きな船体が夕陽に照らされながら停泊していた。その上を羽田を発った飛行機が過ぎていく。こんなにも近くで飛ぶ飛行機を見たことがない。あれもこれもすごいと二人でずっと騒いだ。観覧車は大体15分かそこらで一周した。降りた後真下で観覧車の写真を撮った。あの大観覧車をオートボーイルナで撮るのはいかにも平成で楽しかった。
大学に入学して最初のオリエンテーションが終わった後、教室を出て行く教員と入れ替わりに上級生が入ってきて「夕方から歓迎の花見をやるので是非参加してください」と案内をした。大学の、同じ専攻という括りで縦割りの交流があるとは思っていなかったのだが、考えてみれば学年で40人もいないような狭いコミュニティなのだった。一応周りの人に行くかどうか訊ねると皆「とりあえず」という感じで参加するつもりになっている。ただ一人、まだ部屋が決まらずに長野から通学している人だけは「新幹線の時間があるから」と言って帰って行った。
夕方ぞろぞろと電車に乗り込んで花見会場へ向かう。桜が綺麗なことで有名な公園だと行きしなに聞かされる。着いてみれば確かに満開の桜が無数にあって眺めがいい。朝から場所取りをしていたという上級生が、広いシートの上でゴロゴロと退屈そうに過ごしていた。新入生は促されるまま、大量に用意されたつまみと飲み物の間へバラバラと腰を下ろした。
歓迎会を仕切っていたのは主に、専攻に関わる研究会のメンバーらしかった。色んな人が入れ替わり立ち替わり新入生たちのもとへやってきて、大学はどうだの、先生はどうだのと話をしてくれる。そのうち、私が座っていたグループのところへNさんという四年生が来た。穏やかでいい人そうだな、というのがその時の印象だった。
最初の質問らしく、Nさんは私に「どうして哲学をやろうとしたのか」と訊いた。法学部を蹴ってこちらへ来た口の私は「自分の考える幸福というものが他の人にそうとは限らないと思ったので、他の人が幸福をどう考えているのか知りたいと思った」と、概ねそんなことを答えた。当時私はデカルトにハマっていたので、Nさんと延々デカルトの話をした。Nさん自身はカントを専門にしていた。「カントもやるといいよ」とNさんは言った。ドイツとフランスでは性格が違うから色々学んで考えを確立して行った方がいい、というようなアドバイスをくれたように覚えている。
私はこの日ずっとNさんと話していたので、同席していた上級生からは暫く「花見でずっとN君と喋っていた子」と覚えられていた。研究会へは何度か顔を出したが、結局正式なメンバーにはならずに終わった。課外活動も研究に取り組むより、小説や詩を書き寄って売るという頓狂な取り組みに傾倒するようになったからである。
Nさんとは講義が被ることもほぼなかったが、時折学内で姿を見かけた。院に進学した頃からは、その頻度が少なくなっていたように思う。しかし同じように見かけないと思っていたらインドに行っていたような人もいたし、Nさんもそんな感じだろうと思っていた。そのまま博士課程まで進んで研究者になるまでここにいそうだなと勝手にそう思い込んでいた。
ある年の冬、Nさんと同じ研究会に所属する同級生が慌てたようにやって来て言った。
「Nさんが亡くなったんだってよ」
その言葉を私は全く理解できなかった。
その人はこうも続けた。
「それで、今日Nさんの親御さんが友達や研究会の人に話を聞きたいそうだから、これから大学に行ってくる」
その人がのちに話してくれた内容によれば、大学ではNさんの親御さんと教員と研究会のメンバーが主に集まって色々と話をしたらしかった。Nさんの親御さんはNさんが亡くなった理由について、思い当たることがないか聞きたいというような旨でお話をされたという。しかし皆「信じられない」と驚くばかりで、思い当たるようなことは結局見出せなかったということだった。
それからも折に触れ、当時を知る人とNさんを思い出してたわいもない話をした。何しろ飄々としたかっこいい人だったね、と。今でさえそれくらいしか、Nさんのことを知らない。今回書き記すにあたってまた誰かに何か聞いてみようかとも思ったが、結局一人で思い出すままに書き終えようとしている。こういう機会は実は以前にもあった。しかしその時私はなぜだか急に、Nさんの名前を忘れてしまったのだ。文字数と語感は覚えているけれど、はっきりした名前が思い出せない。しかし「あの人、名前なんだっけ」と聞いて回るのも、そんな切り出し方はあまりに酷いと思ってできなかった。Nさんの名前を思い出そうとして思い出せないまま、さらに何年も月日が過ぎた。
それが、なぜだかは全くわからない。先日朝目が覚めた瞬間、Nさんの名前をはっきりと思い出した。あの花見の日に初めて聞いた時ほどに真新しい感覚で、記憶の底から甦ってきたのだ。人間の脳は思い出そうという行為を一旦やめてもバックグラウンドで検索し続けていると何かで見た気がする。私の脳は数年もかかってやっとNさんの名前を思い出したというわけで、これにより漸くこの思い出を書き記すことができた次第である。
東京は数ヶ月後にオリンピック開催を控えていること、世の中はコロナで全てが様変わりしてしまったことをNさんが知ることはない。Nさんが生きていたら何を思っただろうか、と考える。しかしそれも結局、自分の中で反響するだけでどこからも答えは返ってこない。たいした関わりもない人間が僅かな思い出を掘り起こして書き連ねる意味があるとも思わない。ただ私の生きている限り、Nさんを忘れない。